責任者と黒幕

まぁこの二者っていうのは、構造的には似ているところもあって、ブラックっぽいところでは往々にして同一だったりするかもねっていうことも考えておいたほうがいいかもしれませんね。

黒幕っていうものは、責任者とは真逆に基本的に責任は取りません。何かあれば実行者は大抵切り捨てられるという運命を辿るでしょう。そこまで行かなくても、実行者として関わる限り、大抵はその話の構造に「取り込まれて」しまうわけで、そうそう普通の立場には戻れなくなるとか、その類のリスクは背負うことになるでしょう。今後ぜひダーティーまっしぐらに生きていきたいんだよ、というなら話は別だけど、普通の場合を考えれば、まぁあんまり面白い話じゃないだろうと思うわけです。

ということで、たぶん賢い選択っていうのは、とにかく何かダークな話だなぁと思ったら、責任者っぽいような顔をしていても事実上黒幕なんだから、そんなものには近づかないようにする、できるだけ距離を置くようにするってことなんじゃないかな。

賢いからちょっと首を突っ込んでうまくやれる、なんて考えるのは、たぶん賢いんじゃなくて、おっちょこちょいなんだと思う。まぁ普通の場合はね。で、おそらく無為自然とか中庸とか、そういう考え方こそが、本当に賢いってことなんだろうと思う。

Qui parcit malis, nocet bonis.

長らく更新が滞ってしまいましたが、やはり何か書いておくべきかもしれない……と思って、少しだけ更新してみることにしました。

表題の「Qui parcit malis, nocet bonis.」というのは、ラテン語の格言。ラテン語なんて持ってくるところが衒学的でいやらしい感じもなくはないけれど、この言葉、ちょっとだけ意味深だと思っているのです。意味深だというのも変なんですが。

というのも、この格言、何となく嫌いな意味をもっています。直訳すると「悪人を許す人は、善人に害を与える」。

どう思いますか? 言っていることはわからないでもないけれど、この「許すべからず」という発想は、頑なさという意味では、あまり感じの好いものではないとも言えます。もちろん、善悪に対してキチンとそれを重要視するという意味では大事なことです。とは言え、注目していると言っているのはここではありません。

それとは別に、とにかく何らかの歪みが生じると、それは無関係の人をも巻き込みがちだという意味で「害を与え」てしまいます。この点、この言葉は何となく言い当てているように見えます。もっとも、害という点では、もはや善悪は関係なく害が生じているような気もしますが。
これは難しい問題です。

塵に過ぎないお前は塵に返る。

先週、知り合いが亡くなった。いろいろ考えさせられるものだ。
「塵に過ぎないお前は塵に返る」という創世記の一節を耳にしたのは、今月の最初の日曜日だっただろうか。「塵に過ぎないお前」なんていう、ある種否定的な言葉や出来事に出会うと、改めて世界の違った面を意識するようになる。

そう、僕の連想はちょっと飛んでいるのかもしれないけれど、改めて感じたことを一言で整理すると、それはこんなことなのかもしれない。
すなわち、さまざまな「価値」や「評価」によって僕たちは判断をするけれど、その判断基準たる「価値」とは“人工物”なんだなぁってこと。と書くと、養老孟司の『唯脳論』そのものかもしれないね。つまりは、日本銀行券なんていう紙切れが価値をもつのと同じで、そういうものは元々かなりバーチャルなものであって、真理の法則でも何でもない。まぁ、今さらと言えば今さらかもしれないけれど、よく忘れることのようだ。

死とか人生とか、その手のことを考え出すと、“生きていても意味がない!”という、ある種の不気味さと付き合いながら生きていくことにもなってくる。でも、それがある意味真実だから、こういう“フザケた”所業が、意外にわかりやすい意味深なアートとして理解できるということにもなるのだろう。

カレーパンとは仕舞うものだよ

さっきのカレーパンの歌。コメントのしようがないとか書いておきながら、何かこれについて書いちゃおうとか考えているわけですが、こういうのにマジメなコメントするヤツは、そもそもがわかってないという話もあるかもなぁ。

この歌では、カレーパンは仕舞われます。カレーパンを食わずに、また仕舞った時点で、カレーパンは単なる総菜パンから特別な愛の対象へと昇華し、新しい意味を付与されたわけですが、世界というものはそういうもの。つまり、そもそもは「カレーパン」なる名称から始まり、さまざまな「ラベル」は貼り替え可能。暴走族が珍走団になったり、非同期 XML 通信を駆使した DHTML が Ajax になったりするのも、まぁちょっとは似ているのかも。
大きなものが大きなものではなく、小さなものが小さなものではない。カレーパンを仕舞う世界が開けるかどうかは、それは心ひとつだ。

JUST FOR FUN

id:hyoshiok:20060129 を拝見して。

コミュニティの開発の優先順位はコミュニティの興味ある順になる。Just for funである。コミュニティの構成メンバーが興味のわかない問題については開発の優先順位は低い。(まったく開発されないこともある)つまりコミュニティに興味のある問題についてはバザール方式で素早く頻繁にリリースされ機能がどんどん開発されるがそうでない問題は放置される。

企業発のソフトウェアであれば、明確な優先順位(市場での競争力、すなわち売れる機能かどうかで)を持ちそれによって開発される。市場での競争力という企業によって都合の良いメカニズムはOSSでは機能しない。

OSSの場合、ソフトウェアのロードマップを作ることの困難さはそこにある。技術的なチャレンジあるいは、誰もが困っていることなんだけど、誰もが率先してやることに直接的なインセンティブが働かない問題は間違いなく放置される。

この部分で、ああなるほど、そういうことか、と。“JUST FOR FUN”(『それがぼくには楽しかったから』)は読んでいたのですが、この言葉がここでこうつながるとは。いかにオープンソースコミュニティのことがわかってなかったのか、ということが自覚できたような気がするので、記念としてここにメモすることに。

何がよくわかっていなかったのかっていうと、Just for fun という行動原理の大胆さだ。つまり、企業に支援され、多くのユーザだっているかもしれない、そういう OSS が、Just for fun で堂々とつくられてしまう、というところ。もっと使ってもらうために何かちょっと戦略を、とか、そんな発想はどうやらそこにはあんまりないらしい。好きなものは好き。いいものはいい。

Just for fun はパワフルだけれど、それだけで十分なすべてのピースが埋まるのかっていうと、それは何とも言えない。その意味でビミョーなところがある。と同時に OSS は今後ますます意義を持つ。OSS センターみたいなものは、やっぱり重要そうだ。なんて言いながらも、僕が密かに夢見ているのは、Just for fun でなぜかうまく動いちゃうっていうような社会なのかもしれないけれど。

米オライリーの本が出版前に読めちゃうんだって

MYCOM PC WEB の記事より。
編集者にコメントも送れるんですって。個人的には、コメントを送ってみたいなんて欲求はあまりありませんが……。っていうか、部分的でいいから企画に参加させてよとか? まぁそりゃ無理でしょうけど。